『湘南みずき内科クリニック』開設者の六倉俊哉です。皆様に愛され多くの方に利用していただけるクリニックをめざして奮闘中です。
私は1982年に和歌山県立医科大学を卒業後、茅ヶ崎徳洲会総合病院へ就職し、臨床研修を開始いたしました。
当時の卒後研修は大学病院の医局に入り、教授の外来や回診につきながら、少しずつ知識、技能を磨いていくという形が主流でしたが、それでは幅広く臨床を学ぶことができず、あらゆる疾患に対応できなければならないという臨床医としての役割が果たせないと考えておりました。また、救急患者の受け入れが悪く、患者のタライ回しが問題となっている時期でもありました。
そうこうしているうちに徳田虎雄先生が徳洲会グループを立ち上げ、いつでも、だれでも最良の医療を受けられる社会にしようと呼びかけられ、米国式の全科ローティションという厳しい臨床研修をおこなっていた茅ヶ崎徳洲会病院を臨床研修の場として選択したわけです。
1年目は内科、外科、小児科、産婦人科を研修し、多くの患者さんを診断、治療する機会を得ました。外科では虫垂炎など簡単な手術を数多く経験し、全身麻酔もおこないました。産婦人科では未熟児をとり上げたこともあります。当時の院長の鈴木隆夫先生( 徳洲会理事長)は外科医でありかつ病理学にも見識が深く、病理解剖を通じて医学の奥深さ、おもしろさを教えていただきました。非常に厳しい先生であり、カンファレンスでは何度となくどやしつけられましたが、今となってはよく可愛がっていただいたものだと思えるようになりました。
2年目以降は内科を選択し、消化器科、循環器科、呼吸器科、神経内科、内分泌科にて研修を行いました。特に消化器科では当時、消化器部長であられた上野文昭先生(大船中央病院特別顧問)に消化器病学のみでなく医師としての心構えを徹底的に教えていただきました。内視鏡の技術が日進月歩の時期でもあり、日々新しい技術を習得していくという大変充実した研修を受けることができました。上野先生は現在では潰瘍性大腸炎のガイドラインを作成するなど世界をリードする大先生になっておられますが、今でも必要な時に電話でお話をできる関係で、年に数回はテニスや食事に誘っていただいています。
2代目消化器部長の荒川正一先生(荒川クリニック院長)からは、肝癌に対する肝動脈塞栓術を伝授されました。当時としてはごく一部の病院でしかできなかった特殊治療のため、山形県や長野県から患者さんが来られておりました。国立がんセンターからも患者さんが紹介されて来られました。私は常々研修医に『近くの患者さんや救急の患者さんが来てくれるのはあたりまえ、隣町から電車に乗って来てもらえるようにならなければだめですよ。』と話しておりますが、新幹線が通っていなかった時代に何時間もかけてきていただいていたわけです。荒川先生とは診療がずれ込んで午前3時に抄読会を行っていたことがあり、今でも語り草となっています。
原芳邦先生(原クリニック院長)からは循環器を学び、心電図の読み方、心臓超音波検査、心臓カテーテル検査を指導していただきました。塚本玲三先生(茅ヶ崎徳洲会病院)からは呼吸器病学を学び、喘息や慢性肺疾患の診断、治療を行いました。亀井徹正先生(湘南藤沢徳洲会病院)からは神経病学を学びました。難しい神経疾患は専門医にお任せしておりますが、脳梗塞、パーキンソン病、アルツハイマー病などは診させていただいております。福山次郎先生(福山クリニック院長)からは糖尿病の考え方を学びました。当時は薬の選択も少なく、インスリンの投与法も確立しておらず悲惨な状況でしたが、現在の糖尿病治療は大きく進化しております。当時より多くの患者さんを診させていただいており、継続して勉強を続けたかいもあり、現在も非常に数多くの糖尿病患者さんを診させていただいています。内山富士雄先生(内山クリニック院長)からは在宅医療のイロハをならい、内山先生が開業されたのちの数年間は2代目地域医療部長として多くのご家庭を訪問させていただきました。
内科チーフレジデントのときは内科の入院患者さん全員を回診し、院内のすべての内視鏡検査、超音波検査を私一人が担当し、さらにすべてのCT画像、消化管透視の読影をおこない所見を記載していました。帰宅するのは午前3時で午前7時には朝の回診がはじまっていました。現在ではとても考えられないことです。
4年間の内科研修を修了したのちは、消化器科医として内視鏡的治療を中心に数多くの治療を行ってきました。ポリープ切除、早期癌の切除、出血の治療、食道静脈瘤の治療、内視鏡的胃瘻造設術、痔の治療、胆管結石の治療、肝癌に対するラジオ波焼灼術、慢性肝炎に対するインターフェロン治療、各種ドレナージ手技、ステント留置術など時代とともに次々と新しい技術・治療法が生まれていきましたが、毎月のように学会発表を行い、治療成績向上、安全性向上の工夫に努めてまいりました。3週間連続で学会発表をしたこともありますし、1日に3演題の発表をこなしたこともあります。おそらくですが6cmを超える表層拡大型早期胃癌を内視鏡にて治療したのは私が世界で初めてだと思います。その方は15年経過したのちも健在で、私の外来にくると強く手を握ってくれておりました。また、当時90歳の患者さんが100歳まで生きたいと希望されたため、当時はだれも手を出さなかった巨大結節隆起型の早期癌を内視鏡的に切除しましたが、その方は100歳過ぎまで元気に畑仕事をして、最後は老衰で亡くなりました。
2000年より山形県の新庄徳洲会病院の副院長に就任したため、茅ヶ崎の患者さんには大変迷惑をかける結果となってしまいました。新庄ではまさしく内科医一人であらゆる疾患に対応するという地域医療の原点に到達しました。どんなに忙しくても患者さんには常に適切な治療ができるよう、内科学は徹底的に勉強し続けました。特に東北の病院にいて実感したことは、食事療法の大切さです。炭水化物を主たる食材として塩分を大量に摂取し、酒とたばこが大好きですから、コントロール困難な高血圧、糖尿病、高度の動脈硬化症例が数多く来院します。患者さんには『こんなふうにしていたら、じきに腎臓がダメになって透析が必要となってしまうのですよ。』とお話ししても、その後、患者さんは来院されません。3年後に呼吸困難を訴えて来院した時には、腎不全が完成し、心不全も併発しており、直ちに透析の開始となってしまいました。7年間の新庄徳洲会での経験は専門医のそろっている総合病院では決して得られないものであり、糖尿病をはじめとした総合内科を幅広く学び実践できるようになりました。
新庄徳洲会病院の内科外来も超満員という状況になり、私もそろそろ新庄ではお役御免かなという感じとなってまいりましたが、茅ケ崎においてはすでに多くの若手の先生方が成長してきており、私の出番もそうそうはありません。ゆっくりと自分のペースで患者さんとしっかり向き合いながら診療をしたいと考え、自分でクリニックを立ち上げようと決意した次第であります。
総合病院での診療は各科がそろっているということもあり、大変便利とは思いますが、何といっても混雑しており、待ち時間も長く、1回の受診で疲れ果ててしまうのではないかと思います。医師もあまりに多くの患者さんが来られるため、対応しきれず疲弊しきっています。
私が以前、米国で医療視察をしたときは、医師は自分のオフィスで十分な時間をかけて患者さんを診る。そして、必要な時は入院していただき、入院主治医と協力しながら患者さんの治療にあたるというのが、当たり前でした。このようなシステムをオープンシステムと呼び、日本でも医師会病院などで実現可能となってきています。
徳洲会グループはその点では大変うつわが大きく、地域の先生方と連携しつつ治療を行っております。多くの医師会員が徳洲会病院の登録医となり、入院中も患者さんの診療にあたっています。
私の開業にあたっても院内に開院案内のパンフレットを置いていただき、紹介状の作成にも多くの職員が協力してくれました。当時の亀井院長をはじめ、徳洲会の職員の皆様には、深く感謝している次第であります。
私のクリニックの開設の目的は『地域住民に良質な医療を提供することにより、地域の発展と健康で豊かな生活に貢献する。』ことであります。良質な医療空間を提供するというのも私の目的とするところであります。
別荘のようなゆったりとした待合室で、豊かな時間を過ごしていただきながら、最新鋭の医療機器を駆使して、迅速に診断し最適な治療を行っていきたいと考えております。
床暖房により冬季も頭寒足熱で気持ちよく過ごしていただけます。待合にはドリンクサービスもあります。遠方から来られる方のため広い駐車場も確保しました。
待ち時間は極力短く、診察は丁寧に、検査は苦痛なく、説明はわかりやすく、治療は適切に優しくおこなっていきます。
ひとりで3-4か所の医療機関へ通っている方をよく見かけますが、非常に特殊な疾患を除けば主治医はひとりでよいのではないでしょうか?糖尿病と高血圧と肝臓と喘息と別々の医師にかからなくても、私のところにいらしていただければ、1回で済みますし、最適の治療法を提案できます。また、医療費は大幅に節減できます。
なるべく頻回に受診した方が治療効果が上がるのは事実であり、2週間に1度、ないしは月に1度の受診が望ましいと考えています。しかしながら、忙しくてどうしても通院時間がとれない方には2ヶ月ごとの長期処方も行います。その場合は、年に6回クリニックを受診するだけですので、大きな負担にはなりません。
エコー、内視鏡、骨塩定量検査、血圧脈波検査の結果は即日印刷してお渡しいたします。
血液検査データの即日結果は得られませんが、当日夜か翌日には私のほうでチェックし、異常があれば直ちに連絡いたします。通常は1ヶ月後の再受診の際に説明を聞いていただくことで問題はありません。しかしながら、結果が非常に気になる方は、早めの再受診をお勧めします。忙しくてとても無理という方には郵送で検査データをお送りすることもできます。
入院が必要な方には徳洲会病院のベッドを利用して治療をおこなわさせていただきます。
また、その他の専門病院へ治療を依頼することも可能です。
皆さんのご希望に沿って最適の選択ができるようお手伝いいたしますので、どうか、末永く、よろしくお願い申し上げます。
2,私が医師を目指したわけ
『先生はどうして医者になろうと思ったのですか?』・・・非常によく聞かれる質問です。『病気で苦しんでいる人を助けたいと思ったからです。』などという簡単な言葉では言い尽くせません。
私が6歳の時、近所の消火栓が破裂して、湧き上がる水に子供たちが群がり遊んでいました。そろそろ、水遊びに飽きてきたころに、上級生が『しめるぞ!』といって、鉄ぶたを投げおろしました。その瞬間に私の左手の小指は粉々に砕けたのでした。
父親におぶられ近くの医者にかつぎ込まれましたが、なすすべもなく、国立病院へ転送されました。薄暗い診察室の中で、医師が一言も言葉を発せずに黙々と縫合していたのを、明確に覚えています。
その後、毎日、学校を早退して病院へ通いましたが、指は真っ黒く変色し、落ちてしまうだろうといわれていました。しかしながら、変形を残しながらも、血流は再開し、指を落とさずに済みました。以後、毎日、半年も近くの医者に通いましたが、何をしてくれるわけでもないのに、1時間も診察を待ち、数10円の支払いをしていました。最後の診察の日『もう、こなくていいよ、今日はお金はいらないから』といわれた日には、大変うれしかったです。
国立病院の医師は今でいう当直医だったのでしょうが、お礼をいうことができないのは残念です。
ケガをしてしまったのは残念なことで、その後、後遺症に悩まされることにもなりますが、今思うとこの時の体験により医療への関心がめばえたのではないかと思います。
小学生の時は野口英世の伝記を何回も読みなおしました。野口博士にはいろいろ裏話もあるようですが、子供用の美化した伝記は、私に大きな影響を与えました。
中学生の時、友人たちと猪苗代湖に旅をする機会があり、野口博士の生家を訪ねた時は大変感激しました。博士がやけどをおった囲炉裏をじっとみつめつつ、自分のけがを重ねあわせて考えていました。
初めて飛行機に乗った時、隣席の方が医学書を熱心に読んでおられました。横からレントゲンの写真が見えました。子供ながらにああかっこいいなと思った次第です。後日談になりますが、自分が新幹線や飛行機で遠出するときはかならず医学書を読むようにしています。これはかっこうつけているだけのようですが、ちゃんと勉強もしています。
私は関東学院六浦中学校というミッションスクールに通っていましたが、そこにネパールで僻地医療を行っている医師が講演にこられました。馬に乗って病人を訪ね天然痘の予防接種を行う姿は、大変神々しく思えました。講演ののちに、牧師さんが『六倉君、君も医者にならないか?医者になって困っている人を助けてあげたらどうだ。君ならできるだろう。』といわれたのです。牧師さんがどうして私にそのように話したかはわかりませんが、私は皆の前で『はい』と答えていたのでした。
小指を骨折したことのハンデはほとんど感じていなかったのですが、ピアノがうまく弾けないことに、気づきました。才能もなかったのだとは、重々わかっていますが、練習量の割には上達できませんでした。ギターも弾いてみたかったのですが、これはまったく無理でした。骨折したのが左手の小指であったのは不幸中の幸いでした。医者になり20年もたってから処方箋の書きすぎで、右手の親指がきかなくなりました。字が全く書けなくなり、左手でカルテを書いていましたが、右手が使えないことがこんなにも不便なのかと、わかった次第でした。
こんなわけでどうして医者を目指したのかといわれれば、子供心に『医者はかっこいい。世の中のためになる素晴らしい職業だ。』と思ったのだと思います。結局のところ、発展途上国の山奥へ行って診療するというのは、私には無理でした。1日でも風呂に入らないと気持ちが悪くて仕方がないのです。それから、虫が大の苦手ということもあります。潔癖症で1日に何度も手を洗います。下水道が整っていないと、生活できません。
しかしながら、私は個人的にけがもしたし、大病もしており、患者さんの気持ちはよくわかる方だと思っています。
若手医師でいわゆるバリバリ仕事をしていた時期に、患者さんから肝炎に感染してしまい、半年間も休養を要しました。その頃、三重医大では研修医が肝炎に感染し相次いで死亡した事件もあり、悶々とした日々を過ごすこととなりました。幸いにも肝炎は完治しましたが、仕事ができないつらさは、いいようがありません。
しかし、その間にアメリカに留学し、米国の医療システムを勉強する機会がありました。米国では看護師が医師の仕事を肩代わりして、ドンドン患者さんを診ていました。医師の仕事は、正しい判断をすることであり、かならずしも自らが手を下すことではないということを学びました。日本の医療はこの点では大きく遅れています。
テニスではアキレス腱を切り、スキーでは不覚にも膝の靭帯を断裂しました。また、右肩の肩鎖靭帯も損傷しました。けがをしたときの落ち込みは最悪でした。仕事にも支障が生じますし、スポーツもできなくなります。こんな時はいわゆる『プチうつ』の状態となります。
そんなわけで『うつ』の治療にも関心を持っております。
医者の不養生で無茶苦茶していたこともあり、高血圧、脂質異常症など一通りの生活習慣病も自ら経験してしまいました。糖尿病予備軍の時もありました。
しかし10kgの減量に成功し、いまでは血圧、コレステロール、血糖、肝機能などすべて正常値を維持できています。自身の経験を持ってして自信を持って生活習慣病の指導ができます。
とにかく、病気になってみないとそのつらさはわからないものです。私の今できる役割としては病気になる前に、病気のつらさを教えて軌道修正してあげることだと考えています。
なんといっても生活習慣病を放置している方が多いのです。治療を勧めても『なんにも症状ないんですから、薬なんかいりません。』といわれてしまいます。また、主治医がいても『これくらいはいいよ。』といっていたり、『あんたは気にするから血圧なんか測らない方がいいよ。』などと言っている医師がいるものですから、どうしようもありません。
高血圧をきちんと治療するようになって、脳卒中の発症が激減しているのは、一般の方にも理解が得やすいと思います。以前は60歳代で寝たきりになっている方が多数おられました。コレステロールについてもいろいろな意見がありますが、アナウンサーの徳光さんのお話しは大変意義があると思っています。徳光さんは高コレステロール血症をほっていて心筋梗塞になり、緊急手術で九死に一生を得たのでした。
病気はかかってみなければそのつらさはわかりません。しかし、取り返しのつかない状況になる前に、手を差し伸べたいと心より思っております。